「LOVE FOR NIPPONにかける想い」(前編)
対談ゲスト:Candle JUNEさん(アーティスト)

■「忘れ去られた町」に入る 前田剛: Candle JUNEさんは東日本大震災以降、いち早く被災地に入り、支援活動を続けてきましたよね。3月14日には、多くの著名人を始めとしたスターター(賛同者)とともにLOVE FOR […]

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■「忘れ去られた町」に入る

Candle JUNEさんと前田剛。LOVE FOR NIPPONのオフィスで。

前田剛: Candle JUNEさんは東日本大震災以降、いち早く被災地に入り、支援活動を続けてきましたよね。3月14日には、多くの著名人を始めとしたスターター(賛同者)とともにLOVE FOR NIPPONを立ち上げ、被災地での炊き出しや物資提供、マッサージや整体などのヘルスケア、理美容などのビューティーケア、様々なワークショップや子どもたちとのレクリエーションなど、複合的な活動を展開しています。ほかにも、チャリティーマーケットやインターネットオークション、ライブやパフォーマンスなどのステージなど、LOVE FOR NIPPONの支援の幅は、質量ともに、ものすごい。JUNEさんがLOVE FOR NIPPONを立ち上げたきっかけを教えてください。

Candle JUNEさん(以下敬称略): 元々は、2010年1月に起こったハイチ大地震の被災地支援活動「LOVE FOR HAITI」から1年が経ち、今後も継続しようと活動を続けていた時に、3.11の東日本大震災が発生しました。その後すぐ、LOVE FOR NIPPONを立ち上げました。

Candle JUNEさん。静かで穏やかな口調で被災地への想いを語る

東日本大震災は、あまりにも規模が大きすぎる災害で、「震災」とひとくくりには表現できません。自分は、大地震と大津波、そして原発事故は分けて考えています。これまでは、しかるべき時にしかるべき人や団体がアクションを起こして、自分たちは第一次的な緊急支援的な活動の先の、第二、第三段階としての心身のケアなどの分野でお役に立てるのではないかとは思っていました。ところが今回に関しては、被災地は1カ所ではないし、国や政治の動きが思いのほか早く回らず、全国民挙げてサポートしても圧倒的に足りないのではないかと感じ、第一次段階からまずはアクションを起こさなければいけない、と3月14日には被災地に入りました。

誰も支援ができていないところに足を運ぼうとした結果、そこが福島だったのです。ところが、原発事故による放射能汚染で、30km圏内には立ち入れない。30kmラインのいわき市の四倉、久之浜に、最初は1人で入りました。そこにあったのは30kmという線引きの苦悩と、高い空間線量、そして津波被害。とても厳しい現実でした。

LOVE FOR NIPPONでは、安否確認のサイトと連動し、山形の被災地支援の窓口の紹介や、スターターに多くの著名人が名を連ねていたので物資支援の呼びかけとメッセージの発信に動きました。スターターの中には現地に赴き何かしたいと言う人も多かったので、連れて行く先を探すために宮城県を中心にリサーチしました。支援の手の多くは石巻、気仙沼方面に集中していました。自分たちは、メディアの報道もあまり入らず、「忘れ去られた町」とも言える南部二市二町の岩沼市・名取市・山元町・亘理町の山元町を中心に、炊き出しや物資提供などをしました。今後、なるべくなら同じところに足を運んでもらうために、距離的にも近い南部に拠点を築き、ここをうまく盛り上げていこう、と。

■LOVE FOR NIPPONの温かさ

2月に参加したLOVE FOR NIPPON ROAD(山元町)

前田: メイド・イン・アースが初めてLOVE FOR NIPPONの活動に参加したのは、2011年9月11日の、福島県いわき市四倉でのLOVE FOR NIPPON ROADでした。その後、2月にはROADで宮城県山元町にご一緒し、現地の人たちと、じっくりと、ポツポツと会話をしながら、ミサンガづくりのワークショップをさせていただきました。そのとき、「ただいま!」「おかえり」という、現地の人たちとの温かみある交流から、JUNEさんたちがていねいに関係性を築きあげていた重みを肌身で感じました。現地の方々と寄り添う静かな時間を過ごすことができ、私たちメイド・イン・アースとしても「こういう関わり方ができたら」という思いを強くし、JUNEさんの活動に共感していきました。

JUNE: LOVE FOR NIPPONの活動は、支援活動というよりも、「させてもらっている」という方が大きい。自分たちの意志で来させてもらっていて、受け入れてもらえるかどうか、というイメージなんですね。震災当初の物資提供は、確かにその時は役立ちますし、モノをきっかけに人との出会いをつくらせてもらっている。そうして、2、3回と重ねて通ううちに、それぞれがそれぞれと出会うことで、その場にいる人同士にしか生むことのできないエピソードをつくっていきたかったのです。何年か経った時に、「当時は、こうだったね」という思い出話ができること。一方通行じゃない関係性、これが自分にとって宝なんです。

LOVE FOR NIPPONのサイト。多くの著名人がスターターとして名を連ねる

スターターの皆さんには、できるだけ、何度も現地に足を運んでもらうようお願いしています。震災当初から半年くらいまでは、避難所に芸能人とテレビクルーが連日のようにやってきて、いつも賑やかで、その時は確かに救われたけれども、一度限りだと、忘れられたというマイナスの思いの方が残る。「自分たちは忘れていないよ」ということをきちんと伝えるためにも、一度行った場所にまた行きませんか、と。それが、どれだけ現地のモチベーションを上げるか。スターターに対しても、現地に行ったことをそのとき限りの思い出にせず、「また来たよ」「ただいま」と言える関係性を築いてもらうことが、いつかお互いが喜び合えるものになると伝えて、意識して連れて行くようにしています。

「また新しい友達連れてきたよ」。これができる関係性、その宝物をこの1年つくってきました。そうすれば常に新しい関係性が生まれ、次のステップとして、何かものをつくったり、そこでできた美味しい物を買ってもらうことができれば、それは経済活動につながります。

次のステップとは、現地で具体的に経済をつくっていくことです。メイド・イン・アースとLOVE FOR NIPPONの「祈りのミサンガ」プロジェクトも、アーティストのINORANさんとのコラボレーションで、山元町のお母さんたちの手づくりのミサンガの販売にこぎ着けました。著名人の発信力と、できたアイテムのクオリティや付加価値の高さで、現地に適正な経済と観光が生まれれば、と思っています。

■いつも、福島の人のことを考えている。

前田: 山元町で子どもたちとサッカーをして遊ぶJUNEさんやLOVE FOR NIPPONのスタッフの方たちの表情を見ていると、いつもニコニコ飛び切りの笑顔で、活動を重ねているからこその関係性が垣間みられるような感じです。

カンボジアの天然の植物染めの糸

メイド・イン・アースとLOVE FOR NIPPONがコラボしている「祈りのミサンガ」で使うオーガニックコットンの糸は、カンボジアの地雷原から地雷を撤去して、そこに植えた綿からできています。地雷被害者たちが手紡ぎし、現地の植物を手で染めたものです。私も何度かカンボジアに足を運んでいますが、危険と隣り合わせの地雷原に住む人たちの笑顔と歓迎から、行く度にむしろ元気をもらって帰ってきます。東北に行く時も同じように、現地の人たちの笑顔、やさしさから、喜びや元気を、むしろ私たちがいただいているような気になります。

JUNE: 地震や津波などの自然災害は、実は地球上のあらゆる場所で起こりうることです。大地からの、海からのメッセージのようなものとも言えます。確かに大震災や大津波に遭遇した地域の方々の悲しみは深く、心のケアも必要ですが、それを受け止め、受け流し、生き残った人たちには、いつか「地震に遭ったけれども、大変だったけど、よかったよ」と笑ってもらえるように支援したい。

でも、原発事故だけは違います。原発は人間がつくり出したもので、これは憎しみに変わっていくもの。ここはもっと強制力をもって何とかしないといけないと思っています。

自分は、本来であれば、福島に住む人たちは、少しでも汚染度の低い土地に移り住み、新たな生活を送ってほしいと望んでいます。土地も歴史背景も人も、福島というくくりで「汚染」と考えられてしまっているなかでは、福島の内部から変えていくのは難しく、福島は見捨てられてしまったと思ってもしょうがないくらいのことを、国を含めてやってしまっている。自分がやれることは小さいけれども、福島のためにできることは何でもやっていきたい。震災から1年が経ち、さらにギアを上げていきたいと思っています。

新潟での田植えの様子(写真はLOVE FOR NIPPONオフィシャルサイトより)

自分は、震災から半年後には、山元町の人たちに「いずれ福島の人たちを受け入れてほしい」と伝えています。山元町がいち早く元気になって福島の人を救ってほしいと。いわき市はすでに30km圏内からの避難民を受け入れるには限界です。だから、宮城で、特に人口減少率もトップになっている山元町で、もっともっと、福島の人を救ってほしい。

福島は、空気と土地と水は汚れてしまったけど、人は汚れていないんです。
これまで、風評被害のある栃木や茨城の温泉地などに原発避難者を招くツアーをおこなってきました。仮設住宅にお邪魔した時は明るく、ごはんをつくってくれたりと、元気な笑顔を見せてくれるお母さんたちですが、普段は土地を追われ働く場もなく、圧倒的な日常の中にいます。それで、温泉地のツアーでリラックスしたり、お土産を手渡したりして、ささやかな充実感を感じてもらいたい、ツアーを生き甲斐とも言ってくださるお母さんもいるのですが、圧倒的な日常との間にギャップをつくってしまうことに対しても、どうだろうなと考える。継続したところでその人たちの日常は全然変えられない。

だから、福島の人たちの日常を変えられるような努力はこれからもしていきたい。今年は、かつて稲作をしていた方々を新潟の中越地震の震央地でもあった山間部の棚田に招き、田植えをしてもらいました。「生きる」を考えた時、それは「食べる」を連想し、その食べるの中心には「お米」があり、自分には中越地震震源地とのつながりがある。だから、これから先、不安だらけの皆さんと一緒に、米どころ新潟でお米をつくりたかった。きっと山や土が、山菜が、「生きる」を福島のみなさんに与えてくれるだろうと。また中越地震を体験した皆さんが、福島の皆さんの隣人として暖かく迎えてくれるだろうと考えました。

去年までは、自分が出来ることを全部やろうと思っていましたが、改めて、自分の小ささを実感しました。それでも今年は、自分ができないことも、できる人に頭を下げても全部やる、という言葉に変えてみました。

震災以降、いつも福島のことを考えています。

後編に続く>

【プロフィール】
Candle JUNE(キャンドルジュン)さん
1994年よりキャンドルの制作を始め、ギャラリーやサロンなどでエキジビジョンを開催。LOUIS VUITTONやPRADAなどのレセプションパーティーやファッションショー、野外フェスなどの空間演出に参加。2001年に広島で「平和の火」を灯してから、「Candle Odyssey」と称する悲しみの生まれた場所を灯す旅を始め、2009年にはその集大成となる『Candle Odyssey –the book-』(白夜書房)を出版。新潟中越地震震央地への支援、2010年にはハイチ大震災の被災地支援LOVE FOR HAITIを続け、2011年3月11日よりLOVE FOR NIPPONとして東北への旅を続けている。

LOVE FOR NIPPONのホームページ
http://www.lfn.jp/

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